忌部神社:八雲ニ散ル花 忌部番外篇 02

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島根県東忌部町宮内、そこは忌部の里と呼ばれ、忌部川のそばに「忌部神社」(いんべじんじゃ)がありました。

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忌部氏といえば、玉造に所縁ある氏族ですが、若い女性の参拝客で華やいだ玉作湯神社に比べて、当社はやや侘びた風情があります。

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当地は、富家の分家の「太玉命」が住んでいたと云います。

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太玉の名は、勾玉を造ったことに依るそうです。

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彼は東出雲王家の事代主の息子「クシヒカタ」に従って、大和の葛城へ移住しました。
日本書紀にも、「忌部首の遠祖、大玉」の記述が残っています。

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由緒によれば、当社は明治期まで、大宮神社と称して天太玉命を主祭神としたとあります。

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創建は平安期で、天照大神を日御碕から、天児屋根命を春日大社よりそれぞれ勧請し、忌部神戸の神社の総社としての地位占めてきたそうです。

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拝殿内はとても清浄でした。

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太玉命は大和でも玉を造り続け、大和朝廷でも重要な役職を得るようになっていきます。

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忌部氏はのちに宮中祭祀を受け持ち、役職を首(おびと)から連(むらじ)へ、さらに物部族の重鎮に与えられる宿祢(すくね)ヘと昇位しました。

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そして平安期には、苗字を斎部と改めます。

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境内には様々な摂社が祀られています。

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その神跡を見渡すと、出雲王国の名残を色濃く残しています。

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さらにそれら摂社の奥には、とても神秘的な杜がありました。

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杜の中は散策できるようになっています。

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神社の隣は小学校になっていますので、昼下がりには子供たちで賑わうのでしょうか。

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宮中祭祀を任されるようになる忌部氏ですが、後に台頭してくる渡来系「中臣氏」によってその座を奪われてしまいます。

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故に忌部氏は、現代に謎多き氏族へとなっていったようです。

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